★「茶筒の中蓋」(2020年1月23日)
「副司令は“茶筒の中蓋”であれ」
これは、今から20数年前、私が40代後半の頃、
第7航空団(航空自衛隊百里基地、茨城県)の副司令として着任した際に、
尊敬していた某先輩から
「ナンバー2の心得」
としてアドバイスを頂いたものである。
お茶の葉を保存しておく茶筒の蓋は、外蓋と中蓋の2つがある。
そして中蓋は外蓋よりサイズは少し小さいが外蓋にぴったり合っている。
もし中蓋が外蓋より大きいと外蓋は閉まらないし、
逆に中蓋が小さ過ぎると茶筒の中に落ちてしまい
中蓋の役目は果たせない。
しかも中蓋は外からは見えず目立たない。
加えて、中蓋が上からしっかり押さえていないと、
中のお茶の葉は湿気ってダメになってしまう。
ナンバー2は
「茶筒の中蓋」のようでなければならない、
という趣旨の話であった。
ナンバー2の心得が「茶筒の中蓋」とは全く意外であったが、
新米の副司令には“なるほど”とすんなり腑に落ちた。
そして「あんな副司令なら、いてもいなくても同じだ」
と身も蓋もないことを言われないようにと、
気を引き締めて2年間勤務した。
副司令として立派な中蓋にはなれなかったが、
在任間いつも心の隅に留めておいた「ナンバー2の心得」である。
★銘酒「空の華」60年ぶりに甦る(秘話)(2019年9月11日)
この話は、私が平成13年(2001年)から2年間、
基地司令として熊谷基地(埼玉県)で勤務した際の、
今でも忘れられない体験談である。
熊谷基地は昭和33年(1958年)に
陸軍熊谷飛行学校跡地に創設された。
そのため往時の遺産が基地内随所にあったが、
特に陸軍飛行学校時代から引き続き
学校本部として使用してきた本部庁舎は
風格があり惹かれるものがあった。
熊谷基地本部庁舎(旧陸軍熊谷飛行学校本部庁舎)
しかし、歳月を経て老朽化が激しかったため、
これを取り壊して新たに本部庁舎を建設することとなった。
そして由緒ある建物であったため
「本部庁舎お別れ式典」を大々的に実施しようということになった。
「空の華」の話が出てきたのは、まさにその「お別れ式典」の準備の最中であった。
それは、現在地元熊谷に一軒だけある造り酒屋さんが、
かつて旧陸軍飛行学校のために特別に日本酒を造っていたという話である。
早速、その造り酒屋さんに基地から確認の電話を入れたところ、
現社長はご存じなかったが、御尊父である先代の社長さんが、
それは昔自分が造っていた「空の華」という酒である。
もしかするとタンスの奥に当時のラベルがまだ残っているかもしれない、
と探したら実際に60年前のラベルが出てきたというのである。
そこで現社長は、早速その日の内にそれを基地に持って来られた。
私はラベルを一目見て魂が揺さぶられる思いがした。
抜けるような青空を飛翔する陸軍九十五式練習機の勇姿。
美しい意匠、そして何よりも「空の華」という情趣に富むネーミング・・・。
その後は、とんとん拍子に話が進み、
60年ぶりに銘酒「空の華」が熊谷の地に甦ることになった。
平成14年(2002年)11月12日、
多くの陸軍飛行学校関係者や基地OBの方々にも御参加頂き
「本部庁舎お別れ式典」を厳粛かつ盛大に実施した。
「警備班ラッパ吹奏」に始まり
「本部庁舎への謝辞」「看板取り外し」等を行い、
最後に懇親会場において、
造り酒屋さんに六十年ぶりに造って頂いた
「空の華」の一升瓶を各テーブルに置き出席者にご披露した。
陸軍飛行学校関係者の方々は
「懐かしい」「これを飲んで英気を養った!」等々言われ、
宴は盛り上がり大いに喜んでもらうことができた。
「空の華」の話は大変明るい話題だ、ということで、
某メジャー新聞が埼玉地方版で大きく取りあげてくれた。
そこで基地の広報室が空幕広報室にそのコピーを情報として送ったところ、
「新聞記事のコピーだけか?」と言われ、
急いで「現物」も送り、喜んでもらった。
また、日頃お世話になっている
熊谷市長と熊谷商工会議所会頭にもお届けしたところ
「これはまさに熊谷の歴史そのものである」とのことで、
執務室に飾って頂き熊谷基地の宣伝に一役買うことになった。
こうなるとフォローの風を受けたゴルフボールのようなもので、
更に「空の華」の評判が加速され、
遂に熊谷基地の売店にもお土産用として並ぶこととなった。
「銘酒、空の華六十年ぶりに甦る」の秘話は以上であるが、
これらはひとえに造り酒屋さんはもとより、
総務課長及び総務課員等関係者の尽力によるものであり、今でも深く感謝している。
新しい熊谷基地本部庁舎
★「大佐とコーヒー」(2019年5月24日)
これは、今から約20年前、
私が第7航空団(航空自衛隊百里基地、茨城県)の副司令として
勤務していた時の話である。
百里基地に見学のために来訪した
在日オーストラリア大使館の駐在武官の空軍大佐は、
応接室で副官付(秘書役)の若い女性自衛官(空士長)から出されたコーヒーを
なぜかすぐには飲もうとしなかった。
コーヒーカップばかり気にしているので不審に思っていると、
大佐はおもむろにコーヒーカップの脇に置いてあった
小さなコーヒーミルクを手に取って私に見せた。
すると、なんとそのコーヒーミルクの蓋には
オーストラリアの国旗が印刷されていた。
我々のコーヒーミルクの蓋はと見ると、
そこには日の丸が印刷されていた。
一般的に外国人は
日本人が考えているより
はるかに国旗に対する尊敬の念が強い。
まさか地方の航空自衛隊の基地で
自国の国旗がついているコーヒーミルクに出会うとは
思いもよらなかったとみえ、たいそう感激していた。
まるで初めて訪問した日本の地方の動物園で、
いるはずがないと思っていた
コアラに出会った時のような喜びようであった。
その後、懇談が大いに盛り上がったことは言うまでもない。
大佐が帰った後、
副官付の彼女に
「彼は感激して帰ったよ。良い着意だった。ありがとう」
と言うと、彼女は
「最近コーヒーミルクは蓋に各国の国旗をプリントした
“国旗シリーズ”というのがありそれを使っています。
今日オーストラリアの駐在武官が来訪されるとのことでしたので、
買い置きしていたものを探したのですがありませんでした。
そこで昨日仕事終了後、
基地の売店で袋ごと買ってきて探したら、
運良くあったんです」
と嬉しそうに答えた。
「君は偉い」と誉めた。
もし彼女が何も考えずに、
例えば、
他の国(北朝鮮など)の国旗がついたコーヒーミルクを出していたらどうなっただろうか。
考えたくもないことであるが、
気まずい雰囲気になったことは間違いない。
私が知らないところで、
若い隊員は誠心誠意仕事をしていると強く印象に残った、
今でも忘れられない出来事である。
★「世代のギャップ」(2019年1月31日)
これは航空自衛隊で通信・気象・情報などの教育を行う
第4術科学校(熊谷基地)に勤務していた
平成12年(2000年)の頃の話である。
ある日、高校を卒業し入隊以後1年も経っていない空士学生に講話をする機会があった。
講話終了後、学生の後ろで聞いていた某教官が
「先ほどの講話の中で『この前の戦争では・・』と言われましたが、
あれは第2次世界大戦のことを言われたと思いますが、
学生は若いので、
湾岸戦争のことかな、イラク戦争のことかな、
と迷ったかもしれません」と教えてくれた。
確かにそうかもしれないと思い、
紙と鉛筆を取り出し簡単な計算をしてみた。
今年(講話を行った年)は平成12年(2000年)だから、
「真珠湾攻撃(昭和16年、1941年)」は「59年前」のできことである。
一方、私が彼らと同じ19歳(昭和44年、1969年)の時の「59年前」は
明治43年(1910年)であり、
なんと日露戦争が終わって数年後であった。
つまりタイムスパンだけみると、
私より約30歳年下の若い学生にとっての
「第2次世界大戦」は、
私にとっての
「日露戦争」
と同じくらい昔のできごとであった。
若い学生が「この前の戦争」と聞いて
「湾岸戦争やイラク戦争」をイメージしたとしても無理もない。
学生と私ではそれくらいの「世代のギャップ」があることを痛感した。
そして「世代のギャップ」に留意しつつ話をしないといけないと反省した。
蛇足ではあるが、更に計算をしてみたら、
若い学生にとっての「日露戦争」(彼らが生まれる75年前)は、
私にとっての「西南戦争」(私が生まれる75年前)であった。
「世代のギャップ」は想像以上に大きいものがある。