★「花はなぜ美しいか?」(2023年9月26日)
「花はなぜ美しいか?」
だいぶ前の話であるが、私が高校生の時にたまたま読んだ本の中に、こういう文章があった。
「何だ、この質問は・・・・、それは当然、花が美しいからだろう」と思った。
しかし、その文章はこう続いていた。
「花はなぜ美しいか? それはその花が美しいからだけではない。
それに加えて、見る人に美しいと感じる心があるからである。その両方があってはじめて花は美しいのである。
もし、見る人に美しいと感じる心がなければ、どんなに美しい花がそこにあっても何も感じない。ああ美しいな、という美しさを感じる心、美しさを感じる豊かな感性をもつことが大切なのである」
と書かれていた。私は大袈裟ではなく、雷に打たれたような衝撃を受けた。そしてこの「深い質問」は高校生の私の心に強く刺さった。
その後、航空自衛隊に入り航空機に搭乗していて「ああ、大空は美しいな」と思いながら、抜けるような青空に浮かぶ純白の積雲や、真っ赤な夕日が沈む時に映える茜雲などを見て、その都度心を奪われた。
★「自衛隊協力会長の銅像」(2023年1月30日)
各都道府県には防衛省・自衛隊の窓口として地方連絡部(現在の「地方協力本部」)が設置されているが、これは、平成7年(1995)から2年間、私が宮崎地方連絡部長として勤務した時の話である。
各都道府県にある「防衛協会」や「自衛隊協力会」といった民間の協力団体はいわば大応援団の皆様である。そしてそれぞれの会長には地域の有力な方々が就いておられる。宮崎県にも6500名を越える会員を擁する素晴らしい宮崎県自衛隊協力会(現在の「宮崎県防衛協会」)があった。私が地方連絡部長当時の会長は宮崎銀行相談役の平山輝男さんであり、ご多忙であるにもかかわらず親身になってご支援頂き今でも感謝している。
その初代の会長は、宮崎交通社長の岩切章太郎さんであった。岩切さんは「宮崎観光の父」と言われ、かつて新婚旅行と言えば宮崎と言われるくらいに観光名所に育てられた方であり、今でも宮崎県では知らない人はいないくらい有名な方である。
私が宮崎に着任すると、すぐに、いろんな方から岩切さんの沢山のエピソードを伺った。そのエピソードの一つが、宮崎交通社長の他に、県観光協会会長等約70の肩書きを持っておられ、晩年は肩書きをだいぶ整理されたが、最後まで持っておられた肩書きが5つ程あった。その一つが宮崎県自衛隊協力会の会長であったという有難い話である。
また、大淀川河畔にある宮崎市役所の横に岩切さんの立派な銅像が立っていた。私の通勤経路でもあり、毎日銅像の横を通るたびに「自衛隊の応援団長としてご支援を頂き有難うございました」との気持ちを込めて、いつも心の中で手を合わせていた。
そしてある日、ふと気がついた。
それは、岩切さんは「宮崎地方連絡部」の方を見て立っておられる、ということであった。それからというもの、いろんな会合や講演でそのことを話題にした。
「あの岩切章太郎さんの銅像はどこを向いて立っておられるかご存じですか?」ほとんどの方がきょとんとされ「うーん、どこかな?」「日向灘の方かな?」と考え込まれた。
「実は、岩切さんは宮崎地方連絡部を見て立っておられます。嘘だと思われる方は、あの銅像の後ろに回って、正面の方を良く見て下さい。日の丸の旗が見えますから」そう言うといつも皆さんは「えーっ?」と驚きの声を上げられた。
続けて私が「岩切さんには初代協力会長をして頂き、亡くなられましたが、今でも宮崎地方連絡部頑張れ、と我々を励ましておられるのです」と言うと、皆さん笑われた。「いやいや、皆様方笑っておられますが、これは本当の話なんです」と、私が真面目な顔をして言えば言うほど、笑い声が大きくなった。
そんなある日、この話をある会合でしたところ、たまたまそこに参加しておられた宮崎交通の社員の方が会合終了後、控室にやって来られ「地連部長さん、あの銅像は地方連絡部の近くにある宮崎交通の本社を向いて立っておられるんですよ」と言われるではないか。
この件によって、会合や講演では、参加しておられる方のことも良く良く考慮に入れて話の内容を決めなければならないということを学んだ。
これは、今でも忘れられない楽しかった宮崎勤務時代の思い出である。
★「22回の転勤人生」(2022年6月12日)
青森県の「リンゴ園」 茨木県の「袋田の滝」
静岡県の「うなぎ」 宮崎県の「高千穂峡」
〇 人生の幅が広がった転勤
私は34年間の航空自衛官人生で、北は青森県三沢市から南は宮崎県宮崎市まで22回の転勤をした。やや多いかもしれないが自衛官としてはよくあることだと思う。転勤は慣れない土地に行くことであり、子供の学校の転校などもあり大変なことであった。しかしそれらを補って余りあるメリットもあった。転勤した先でその土地の旅行案内の本を買い、休日に名所旧跡を巡り、行った場所には赤鉛筆で○をつけていった。これは達成感も感じられ楽しかった。
日本全国を官費で旅行して回ってるようなものだなとも思った。こんな話を転勤がない仕事をしている私の姉や弟に話すと「自衛官は全国いろんなところに行けて良いね」と羨ましがられたものである。日本全国、各地それぞれに良さがあった。これらはお金で買えないものであり、人生の幅が広がったと思う。
〇 各地それぞれの良さ
青森県三沢基地勤務の際は八甲田山の酸ヶ湯温泉、弘前のリンゴ。茨城県百里基地勤務の際はダイナミックな袋田の滝、アンコウ鍋。静岡県浜松基地勤務の際は、遠州灘を望む砂丘での大凧揚げ大会、浜名湖のウナギ。宮崎県宮崎地方連絡部勤務の際は、天孫降臨神話の高千穂峡、完熟マンゴー等々。各地それぞれに良さがあった。忘れられない思い出である。
〇 行くも涙、帰るも涙
22回の転勤では、都市部から地方への転勤や、その逆のこともあった。都市部ではショッピング、劇場での娯楽などたっぷり楽しめたので、地方へ転勤する際は寂しく思うこともあった。妻や子供も同じであった。
しかし心機一転、地方に行けば行ったで、豊かな自然や美味しい郷土料理、それに温かい人情との出会いがあった。そして何年か経ちまた都市部への転勤。今度は地方から離れる寂しさがあった。まさに「行くも涙、帰るも涙」であった。
〇 仕事に惚れ、女房に惚れ、土地に惚れよ
若い頃、先輩自衛官から「三惚れ」という言葉を教えてもらった。「仕事に惚れ、女房に惚れ、土地に惚れよ」これは至言であると思う。二番目は「敵」、訂正「相手」があるため実践は容易ではない。但し、三番目の「土地に惚れ」は常に心がけてきた。
転勤したそれぞれの土地に、それぞれの忘れられない思い出がある。自衛官人生は転勤人生であったが、豊かな転勤人生であったと感謝している。
★「対馬の町長の質問」(2021年10月28日)
「大臣、我々はそんなことを聞いているんじゃないんです。何時間で何名来てくれるのかということを聞いているんです!」
私は、思わず食べていたものが喉に詰まりそうになった。そして和やかだった昼食会の空気は一変し、弓のようにピーンと張りつめた。
これは、平成7年(1995年)、当時のT防衛大臣が、長崎県の対馬に所在する自衛隊の部隊を視察された際に、私も航空幕僚監部総務課の幕僚として随行した際の話である。
対馬は、韓国と九州のほぼ中間に位置する国境の島である。そして、僅か50キロメートル北には韓国があり、夜は天気が良ければ釜山の街の灯がはっきりと見える。そのような国防の最前線の島であるため、陸、海、空自衛隊のそれぞれの部隊が24時間、365日、警戒監視の任務についている。
視察当日は、対馬で最も大きい町、厳原にある飛行場に、防衛大臣と随行者が降り立った。そして対馬にある5つの町と村(町村合併前)の首長さん全員が集合され、「T防衛大臣を歓迎する昼食会」が催された。私も末席に座ったが、当然和気藹々のうちに終わるとばかり思っていた。
しかし、昼食会が終了する間際に、一人の町長さんが手を挙げて質問された
「ところで防衛大臣、一つ質問があります。我々は元寇の昔から、朝鮮半島で何かあると枕を高くして寝られないんです。必ず対馬にも影響がある。難民が来るかもしれない。それもただの難民ならいいが武装難民かもしれない。その時は自衛隊は何をしてくれますか?」
元ラグビー選手で堂々たる体格のT大臣は、すかさず胸を叩かんばかりに「まかせてください! 自衛隊がしっかりやります、心配しないで下さい!」と力強く答えられた。
すると、その町長は語気強く怒ったような感じで言われた。それが冒頭にも書いた「我々はそんなことを聞いているんじゃないんです。何時間で何名来てくれるかということを聞いているんです!」という質問であった。
その場にいた皆が一斉にT大臣を見た。大臣の顔色がさっと変わった。「自衛隊はいざという時のために、実際に計画を持っており、そういった場合は直ちに陸上自衛隊、海上自衛隊、航空自衛隊が出動します」と、大臣が計画の概要を説明したところ、やっとその町長は納得された。
朝鮮半島から遠く離れた東京などでは想像もつかないことであるが、対馬の人々は、不安や危機感を持って生活をしている。
この時に私は、国境の島の人々の自衛隊に対する大きな期待をひしひしと感じた。この感覚はそれまで感じたことのないものであった。
更にこれには後日談がある。この時から数年経った頃、T元防衛大臣が、都内某所で講演をされ、私はたまたまその講演を拝聴する機会があった。その講演の中でT元防衛大臣は「対馬の町長の質問」の話もされた。T元防衛大臣にとっても強烈な体験だったのだなと、当時のことを思い出して感慨深いものがあった。30年近く経った今でも忘れられない「対馬の町長の質問」である。
★「体験入隊に参加した高校教師」 (2021年5月25日)
これは「人は異なる体験をすると、
意外なことに気がつく場合がある」という話である。
自衛隊の「体験入隊」は、
一般の方に二泊三日程度の日程で訓練や隊内生活を体験してもらい、
合わせて自衛隊の実際の姿を広く知って頂く制度である。
そしてその体験入隊の代表的な内容が「教練」である。
教練は「気を付け」「敬礼」「行進」といった
基本的な動作を身につけるための訓練である。
通常、十名程度を一個分隊として、自衛官の教官の指導の下、
各分隊ごと、号令をかける指揮官と、分隊員の役を交代しながら実施する。
私が埼玉県にある熊谷基地の司令であった平成十四年(二〇〇二年)にも体験入隊を実施していた。
そして体験入隊が終わるといつも参加者に簡単な感想文を書いてもらうことにしていた。
その後の体験入隊の参考にするためである。
ある時、某高等学校の若手教師の皆さんが体験入隊を行ったが、
その時のある教師の方の感想文が今でも私の記憶に強く残っている。
その感想文にはこう書いてあった。
「私は、自衛隊で初めて教練を行いました。
教練では指揮官と分隊員の両方の役を交代で行いましたが、そこであることに気が付きました。
それは、日頃、
教師として生徒を指導していく上でうまくいかない場合は、
生徒にやる気がないとか、生徒が良く聞いていないとか、
生徒の側に原因があるとばかり思っていましたが、
今回、分隊員の役もやってみて、うまくいかないのは
指揮官が号令をかける時の声の大きさや、号令をかけるタイミングなど、
指揮官の側にもかなりの原因や責任があることが分かりました。
教師をやっていて、指導者の立場は十分に分かっていたつもりですが、
大事なことを見落としていたことに気が付きました。(以下略)」
教練は本来「気を付け」「敬礼」「行進」といった基本的な動作を身につけるための訓練であるが、
この若手教師の方は、「教練」を通じて
「人を動かす」という「リーダーシップ」の本質をも体得されたのだと思う。
また体験入隊を実施する側の我々にも大事なことを再認識させてくれた感想文であった。
今でも忘れられない体験入隊の感想文である。