★「ダボハゼ」 (2020年12月2日)

 

 

これは私がまだ若かった二十代の頃の話である。

 

奈良の航空自衛隊幹部候補生学校を卒業する際、
希望どおり「気象予報官の道」に進むことになり、
最初の勤務地である入間基地(埼玉県)の気象隊に勇躍赴任した。

 

それから数週間経った頃、上司である予報班長のM3佐に呼ばれた。
そしてこう指示を受けた
「今日から林候補生を訓練係に命ずる。
早速、来月気象隊でバレーボール大会を行うので、気象隊の命令を起案せよ」

 

着任早々であり、
ここは一つ立派な命令を起案するぞと気合いを入れて準備に取りかかった。
前年度のバレーボール大会の命令も参考にしつつ、
前任の訓練係から昨年の反省や教訓も教えてもらい、
数日後、案を作成し自信を持って予報班長に報告した。

 

予報班長はその案をじっと見つめていたが、しばらくしてやおら

 

「林候補生、今回のバレーボール大会の目的はなんだ」

 

私は「冒頭に書いているとおりです。気力・体力の錬成です」と力強く答えた。
「誰が、目的を気力・体力の錬成と決めたのか」「・・・」
実は、命令の主要な部分は、前年度のものをそのまま使っていた。

 

 

予報班長は続けた。
「事前に『隊長の御意図』を確認に行ったか? 
バレーボール大会の目的は、林候補生が決めるんではなく、
隊長が決めるんだ。
目的を何にするかで実施内容や実施要領は大きく変わるぞ。
目的は『気力・体力の錬成』の他にも、
気象群全体のバレーボール大会に備えた錬度の向上とか、
相互親睦とかいろいろ考えられるぞ、
君は『指揮官の意図の確認』というのを幹部候補生学校で習わなかったのか?」

 

「・・・・」

 

万事休す。全く言われるとおりで手も足も出なかった。

 

私の初の命令起案であったので、
予報班長はしっかり指導しようと手ぐすねを引いて待っておられたのだと思う。
そして
「君のように、あまり深く考えずにすぐに食らいつくのをダボハゼと言う」
と言われた。

 

その時は、予報班長から他にもいろいろ指導されたが、
この言葉だけが「ダボハゼ」の映像と共に頭にしっかり残った。
その後、気象隊長のところに「意図の確認」に行き、
どうにか命令を起案し、バレーボール大会は無事終わった。

 

 

「指揮官の意図の確認」は幕僚業務の「いろは」の「い」である。
しかし幹部候補生学校を卒業したばかりの私は
「この俺が気象隊を動かしてやる」
といった気持で天狗になっていた。

 

人間は嫌な思い出は本能的に忘れようとするものだが、
このバレーボール大会の「ダボハゼ」の一件だけは忘れられない苦い思い出であり、
その後の自衛官人生においても

 

「指揮官の意図の確認」

 

は常に頭の片隅に残っていた。

 

 

 

 

 

 

★「砕氷艦“しらせ”誘致の切り札」 (2020年5月25日)

 

 

 

 

海上自衛隊が保有する
砕氷艦「しらせ」に格別の興味とロマンを持つ人は多い。

 

これは私が平成7年〜9年の間、
宮崎地方連絡部長(現在の宮崎地方協力本部長)として勤務した際の
「しらせ」にまつわる忘れられない話である。

 

「しらせ」が寄港すると平均して数万人の見学者が訪れることもあり、
私は宮崎県民への自衛隊の広報の目玉として
「しらせ」の県内寄港を是非実現しようと考えていた。

 

その後、地方連絡部の広報室長以下が積極的に動いてくれたお陰で、
宮崎県知事のMさんも宮崎市内にある宮崎港への寄港を希望されることとなった。

 

ただ誠に残念であったが、
宮崎港は「しらせ」が接岸するには水深が不足していることが後日判明し、
宮崎港への寄港の話はボツとなった。
ボツと決まったことを報告に行った際の、県知事の残念なお顔は今でも忘れられない。

 

しかし神は見捨てなかった。

 

しばらくすると日南市長のKさんが
油津港の大改修記念のメインイベントとして
「しらせ」の寄港を強く希望されているとの情報が入った。

 

そこで私はすぐに日南市役所を訪れた。
お会いしたら市長は私が全く予想もしていなかったことを話された。

 

私は驚いた。

 

「しらせ」の名前の由来である南極を探検したあの白瀬中尉が、
明治 43 年(1910 年)に南極に出発する際に携えたパスポートに署名した外務大臣は、
なんと日南市が生んだ偉人でありポーツマス条約で有名な
あの「小村寿太郎」だったという話である。

 

市長さんは熱く語られた。
最後に「これがそのパスポートのコピーです」と一枚の紙を差し出された。
そこにははっきりと小村寿太郎の署名があった。

 

 

日南市と「しらせ」にこのような深い関係があったということは
初めて聞く話であり、私は胸を打たれた。
「しらせ」の寄港は他からの要請も多くハードルは高いが、
私はこれは行けると確信した。

 

早速、市長からそのコピーを頂き、
市ヶ谷の海上幕僚監部に寄港要望の上申をし、
その後各方面の皆様のご支援ご助力もあり
「しらせ」の油津港寄港が決定した。

 

そして、翌年の平成 10 年(1998 年)9月、
遂に「しらせ」は、
油津港大改修記念のイベントに花を添えるため油津港に入港した。

 

その時の見学者は最終的に数万人となり大成功であった。

 

残念ながら、私は寄港直前に茨城県の百里基地へ転勤となったが、
実現に至ったことは今もって忘れられない思い出である。

 

実はこの話にはもう一つの隠れたエピソードがある。

 

県知事のMさんに「日南市に寄港することが決まりました」と報告に行った際、
知事は大変喜ばれ

 

「地連部長、是非“しらせ”の写真パネルを一枚下さい。
宮崎市にある県立図書館の児童図書室に飾りたいから」

 

と言われた。

 

 

南極の抜けるような青い空の下、
純白の氷の中に停泊している堂々たる「しらせ」の写真パネルは、
今でも県立図書館の児童図書室で多くの子供達に夢を与えていることと思う。

 

 

 

 

★「茶筒の中蓋」(2020年1月23日)

 

「副司令は“茶筒の中蓋”であれ」

 

これは、今から20数年前、私が40代後半の頃、
第7航空団(航空自衛隊百里基地、茨城県)の副司令として着任した際に、
尊敬していた某先輩から
「ナンバー2の心得」
としてアドバイスを頂いたものである。

 

 

お茶の葉を保存しておく茶筒の蓋は、外蓋と中蓋の2つがある。

 

そして中蓋は外蓋よりサイズは少し小さいが外蓋にぴったり合っている。
もし中蓋が外蓋より大きいと外蓋は閉まらないし、
逆に中蓋が小さ過ぎると茶筒の中に落ちてしまい
中蓋の役目は果たせない。
しかも中蓋は外からは見えず目立たない。
加えて、中蓋が上からしっかり押さえていないと、
中のお茶の葉は湿気ってダメになってしまう。

 

ナンバー2は
「茶筒の中蓋」のようでなければならない
という趣旨の話であった。

 

ナンバー2の心得が「茶筒の中蓋」とは全く意外であったが、
新米の副司令には“なるほど”とすんなり腑に落ちた。

 

そして「あんな副司令なら、いてもいなくても同じだ」
と身も蓋もないことを言われないようにと、
気を引き締めて2年間勤務した。

 

副司令として立派な中蓋にはなれなかったが、
在任間いつも心の隅に留めておいた「ナンバー2の心得」である。

 

 

 

 

 

 

 

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