★銘酒「空の華」60年ぶりに甦る(秘話)(2019年9月11日)
この話は、私が平成13年(2001年)から2年間、
基地司令として熊谷基地(埼玉県)で勤務した際の、
今でも忘れられない体験談である。
熊谷基地は昭和33年(1958年)に
陸軍熊谷飛行学校跡地に創設された。
そのため往時の遺産が基地内随所にあったが、
特に陸軍飛行学校時代から引き続き
学校本部として使用してきた本部庁舎は
風格があり惹かれるものがあった。
熊谷基地本部庁舎(旧陸軍熊谷飛行学校本部庁舎)
しかし、歳月を経て老朽化が激しかったため、
これを取り壊して新たに本部庁舎を建設することとなった。
そして由緒ある建物であったため
「本部庁舎お別れ式典」を大々的に実施しようということになった。
「空の華」の話が出てきたのは、まさにその「お別れ式典」の準備の最中であった。
それは、現在地元熊谷に一軒だけある造り酒屋さんが、
かつて旧陸軍飛行学校のために特別に日本酒を造っていたという話である。
早速、その造り酒屋さんに基地から確認の電話を入れたところ、
現社長はご存じなかったが、御尊父である先代の社長さんが、
それは昔自分が造っていた「空の華」という酒である。
もしかするとタンスの奥に当時のラベルがまだ残っているかもしれない、
と探したら実際に60年前のラベルが出てきたというのである。
そこで現社長は、早速その日の内にそれを基地に持って来られた。
私はラベルを一目見て魂が揺さぶられる思いがした。
抜けるような青空を飛翔する陸軍九十五式練習機の勇姿。
美しい意匠、そして何よりも「空の華」という情趣に富むネーミング・・・。
その後は、とんとん拍子に話が進み、
60年ぶりに銘酒「空の華」が熊谷の地に甦ることになった。
平成14年(2002年)11月12日、
多くの陸軍飛行学校関係者や基地OBの方々にも御参加頂き
「本部庁舎お別れ式典」を厳粛かつ盛大に実施した。
「警備班ラッパ吹奏」に始まり
「本部庁舎への謝辞」「看板取り外し」等を行い、
最後に懇親会場において、
造り酒屋さんに六十年ぶりに造って頂いた
「空の華」の一升瓶を各テーブルに置き出席者にご披露した。
陸軍飛行学校関係者の方々は
「懐かしい」「これを飲んで英気を養った!」等々言われ、
宴は盛り上がり大いに喜んでもらうことができた。
「空の華」の話は大変明るい話題だ、ということで、
某メジャー新聞が埼玉地方版で大きく取りあげてくれた。
そこで基地の広報室が空幕広報室にそのコピーを情報として送ったところ、
「新聞記事のコピーだけか?」と言われ、
急いで「現物」も送り、喜んでもらった。
また、日頃お世話になっている
熊谷市長と熊谷商工会議所会頭にもお届けしたところ
「これはまさに熊谷の歴史そのものである」とのことで、
執務室に飾って頂き熊谷基地の宣伝に一役買うことになった。
こうなるとフォローの風を受けたゴルフボールのようなもので、
更に「空の華」の評判が加速され、
遂に熊谷基地の売店にもお土産用として並ぶこととなった。
「銘酒、空の華六十年ぶりに甦る」の秘話は以上であるが、
これらはひとえに造り酒屋さんはもとより、
総務課長及び総務課員等関係者の尽力によるものであり、今でも深く感謝している。
新しい熊谷基地本部庁舎
★「大佐とコーヒー」(2019年5月24日)
これは、今から約20年前、
私が第7航空団(航空自衛隊百里基地、茨城県)の副司令として
勤務していた時の話である。
百里基地に見学のために来訪した
在日オーストラリア大使館の駐在武官の空軍大佐は、
応接室で副官付(秘書役)の若い女性自衛官(空士長)から出されたコーヒーを
なぜかすぐには飲もうとしなかった。
コーヒーカップばかり気にしているので不審に思っていると、
大佐はおもむろにコーヒーカップの脇に置いてあった
小さなコーヒーミルクを手に取って私に見せた。
すると、なんとそのコーヒーミルクの蓋には
オーストラリアの国旗が印刷されていた。
我々のコーヒーミルクの蓋はと見ると、
そこには日の丸が印刷されていた。
一般的に外国人は
日本人が考えているより
はるかに国旗に対する尊敬の念が強い。
まさか地方の航空自衛隊の基地で
自国の国旗がついているコーヒーミルクに出会うとは
思いもよらなかったとみえ、たいそう感激していた。
まるで初めて訪問した日本の地方の動物園で、
いるはずがないと思っていた
コアラに出会った時のような喜びようであった。
その後、懇談が大いに盛り上がったことは言うまでもない。
大佐が帰った後、
副官付の彼女に
「彼は感激して帰ったよ。良い着意だった。ありがとう」
と言うと、彼女は
「最近コーヒーミルクは蓋に各国の国旗をプリントした
“国旗シリーズ”というのがありそれを使っています。
今日オーストラリアの駐在武官が来訪されるとのことでしたので、
買い置きしていたものを探したのですがありませんでした。
そこで昨日仕事終了後、
基地の売店で袋ごと買ってきて探したら、
運良くあったんです」
と嬉しそうに答えた。
「君は偉い」と誉めた。
もし彼女が何も考えずに、
例えば、
他の国(北朝鮮など)の国旗がついたコーヒーミルクを出していたらどうなっただろうか。
考えたくもないことであるが、
気まずい雰囲気になったことは間違いない。
私が知らないところで、
若い隊員は誠心誠意仕事をしていると強く印象に残った、
今でも忘れられない出来事である。
★「世代のギャップ」(2019年1月31日)
これは航空自衛隊で通信・気象・情報などの教育を行う
第4術科学校(熊谷基地)に勤務していた
平成12年(2000年)の頃の話である。
ある日、高校を卒業し入隊以後1年も経っていない空士学生に講話をする機会があった。
講話終了後、学生の後ろで聞いていた某教官が
「先ほどの講話の中で『この前の戦争では・・』と言われましたが、
あれは第2次世界大戦のことを言われたと思いますが、
学生は若いので、
湾岸戦争のことかな、イラク戦争のことかな、
と迷ったかもしれません」と教えてくれた。
確かにそうかもしれないと思い、
紙と鉛筆を取り出し簡単な計算をしてみた。
今年(講話を行った年)は平成12年(2000年)だから、
「真珠湾攻撃(昭和16年、1941年)」は「59年前」のできことである。
一方、私が彼らと同じ19歳(昭和44年、1969年)の時の「59年前」は
明治43年(1910年)であり、
なんと日露戦争が終わって数年後であった。
つまりタイムスパンだけみると、
私より約30歳年下の若い学生にとっての
「第2次世界大戦」は、
私にとっての
「日露戦争」
と同じくらい昔のできごとであった。
若い学生が「この前の戦争」と聞いて
「湾岸戦争やイラク戦争」をイメージしたとしても無理もない。
学生と私ではそれくらいの「世代のギャップ」があることを痛感した。
そして「世代のギャップ」に留意しつつ話をしないといけないと反省した。
蛇足ではあるが、更に計算をしてみたら、
若い学生にとっての「日露戦争」(彼らが生まれる75年前)は、
私にとっての「西南戦争」(私が生まれる75年前)であった。
「世代のギャップ」は想像以上に大きいものがある。
★「阪神大震災時の自衛官OBの活躍」(2018年10月26日)
平成7年(1995年)に起きた阪神大震災時の現役自衛官の活躍は、
マスコミでも度々取り上げられたが、
過酷な現場で自衛官OBが活躍したことはほとんど知られていない。
私は平成7年〜9年の間、
宮崎地方連絡部長(現在の宮崎地方協力本部長)として勤務したが、
在任中公私共に多くの方々と親交を深めることができた。
その中には「単身赴任者の会」もあり、
そこに日本銀行の天野さんもおられた。
その天野さんが、
阪神大震災が起きて約一年が経った頃
「林さん、こんな本があるのをご存知ですか、自衛隊の教育訓練はすごいんですね」
と私に紹介されたのが
「阪神大震災、日銀神戸支店長の行動日記」(遠藤勝裕著、日本信用調査出版部発行)
という本であった。
そこには、以下のようなことが書かれていた。
「平成7年1月17日早朝、
地震発生後に日銀の神戸支店長は心配した。
被災者は、命が助かったら次はお金と市中の銀行へ殺到する。
すると次に市中の銀行が日銀に押し寄せて来る。
急いで業務再開の準備をしなければならない。
※写真は、「復興の名脇役!阪神・淡路大震災にみる銀行の災害対応 」より
(上の写真を押すと、該当のホームページに飛びます。)
しかし当時日銀の内部はひどい有様だった。
事務所では現金収用箱が倒れ、
金庫室内ではお札が散乱していた。
支店長はとにかく早く準備しないと多くの銀行から人が来ると気が気ではなかった。
(中略)
その日の夕方、
庶務課長が『金庫室にすぐ来て下さい』と支店長を呼びに来た。
直ちに金庫室へ駆けつけると、
なんとあの散乱した室内が全て元どおりに整理されていた。
そして庶務課長が言った『1円たりとも散逸していません。
明日朝から業務が再開できます。
庶務課所属の自衛官OB5名が、朝からビスケットのみでやってくれました』
自衛官OBの一人が言った
『これくらい大したことはありません。
我々が現役時代やっていた訓練に比べればどうってことありません』
それを聞いて支店長は涙が出るくらい嬉しかった」
以上であるが、
日銀の自衛官OBは自宅や家族のことが心配だったはずだが、
かつて培った使命感がそうした行動をとらせたと思う。
私はまるで現役の我々が褒められたように嬉しかった。
そして、この自衛官OBの「隠れた美談」を他の多くの現役にも知って欲しいと思い
兵庫地連部長(現在の兵庫地方協力本部長)と相談して、
「朝雲新聞」他の自衛隊関係の新聞、雑誌等に数多く投稿し部内広報を行った。
余談であるが、それまで地方連絡部の隊員には
「単身赴任の会は夜の一杯会ばかり」という印象をもたれていたが、
この一件でかなり点数を上げることができた。
★「わが汗ムダであれ」(2018年5月20日)
これは昭和五十五年(1980年)、
今から約四十年ほど前の航空自衛隊のPRポスター
を見たときの私の印象である。
(下の写真と実際のポスターとは異なります。)
「わが汗ムダであれ」
訓練に飛び立つ直前の眼光鋭い
戦闘機パイロットの大写しの顔写真と
「わが汗ムダであれ」
という文字があった。
私が二十代の終わり頃、
幹部学校(当時市ヶ谷、現在目黒)の
幹部普通課程(SOC)に入校中に
「この航空自衛隊のポスターを見て、君は何を思うか?」
という課題が出された。
SOCでは授業の度に課題が出され、
私はその都度、
無い知恵を絞ってレポートを提出していたが、
このひと味違った課題のことは今でもはっきりと覚えている。
普通、
人は誰しも
「わが汗ムダであれ」とは思わず、
逆に
「わが汗役に立て」と思うものである。
私はそれまで
「わが汗ムダであれ」
とは考えたこともなかったし、
このPRポスターを見て、
自分は
こんなカッコいいことを言えるほど
深い考えをもち、
かつ情熱をもって
訓練に励んでいるだろうかと
忸怩たる思いがした。
武力集団には
「厳しい訓練を行なえば行うほど実際に使う機会が少なくなる」
といったパラドックスがある。
まさに
古武道の言葉にある
「刀を使わないために、常に刀を研いでおく」
という抑止の論理そのものであり、
「わが汗ムダであれ」という言葉は
日々厳しい訓練に臨む自衛官の心の叫びであろう。
課題に対する私のレポートの結論は
概ね以上のようなものであったと記憶している。
このポスターは
自衛隊以外の民間の人達に対する
PR用に作成されたものだったのであろうが、
自衛隊の内部にいる我々に対しても
強いメッセージ性をもったカッコいいポスターであった。
そしてこの
「わが汗ムダであれ」
というPRポスターは、
私の頭の片隅に現役時代はもとより、
定年後の今でも鮮明に残っている。
★「大使館の世界地図」(2018年4月5日)
その世界地図は、
私がこれまでに見たことがないものだった。
これは、今から三十年ほど前、
私が統合幕僚会議事務局長(現在の統合幕僚監部幕僚副長)の
副官をしていた時の話であるが、
事務局長のお供で時々
都内の大使館にも行くことがあり、
その日はA国大使館に行った。
事務局長が
A国大使や駐在武官と用談をしている間、
私は隣の控えの部屋で待っていたが、
その部屋の壁の真ん中にその世界地図はあった。
横幅は優に二メートルはあり、
金色の派手な額縁に入れられ
堂々と掛けてあった。
その地図の中央には
イギリス、それとヨーロッパがあり、
それを囲むように
アメリカとユーラシア大陸が広がっていた。
日本は?
と見ると、
地図の一番右端
つまり東のはずれにポツンとあり、
いつもの地図で見るより
心なしか小さく見えた。
いつも見る地図との
あまりの違いにしばらく見詰めてしまった。
いつも見る世界地図は、
これが当然であるかのように、
中央に日本があり、
右手に太平洋、
その先にはアメリカがあり、
また左手には中国、ユーラシア大陸が広がり
ヨーロッパまで伸びている。
私は、
何の疑念も抱かず
世界中の人々が
「中央に日本がある地図」
を見ていると思っていた。
しかし、実際には
A国大使館の人達をはじめ、
おそらく多くの外国の人達は
全く違う世界地図を見ていたのだろう。
逆に彼らは
日本に来て
「中央に日本がある地図」
を見て驚いたのかもしれない。
このように欧米がメインで、
日本が東のはずれ、
つまり
極東(北極や南極と同じ「極」の字がつく「極東」)
にある地図を毎日見ていたら、
世界観も相当違ってくるだろうし、
日本は
かなり異なる文化を持っていて神秘的、
と彼らが感じるのも
無理はないかもしれない。
また
人の関心は物理的距離に反比例するものであり、
日本と中国を比べてみても、
中国の方が地理的に近いので、
中国の方に関心が高く、
日本人が思うほど
彼らの日本に対する関心は高くはないであろう。
良く欧米では
東シナ海や尖閣諸島問題に
関心が薄いと言われるが無理もないと思う。
異なった地図からは
異なるものが見えてくるものであり、
固定観念に囚われない
柔軟な発想が大事だと思う。
欧米人はそういう地図を見て、
そういう感覚を持っているということを知った上で、
彼らと接するべきであろうと思う。