●8月23日は【白虎隊の日】
白い城壁が美しく、春には桜が舞い散る「鶴ヶ城」。かつてこの城を守るために戦い、若くして自決の道を選んだ少年たちがいました。その少年たちこそ「白虎隊」です。
戊辰戦争の際に構成された玄武・朱雀・青龍・白虎の4隊の中で最も若い隊であった白虎隊。

 

一口メモ:2023年8月

 

●戊辰戦争とは
1866年3月、薩摩藩(現鹿児島県)と長州藩が薩長同盟を締結。次第に倒幕の機運が高まり始めていました。そのため徳川慶喜は「大政奉還」を行い、政権を朝廷に返上。
しかし、新政府側はその後も旧幕府側が政権を掌握していることに反発し、明治天皇が「王政復古の大号令」を発令しました。これにより、幕府は完全に廃止。新政府の誕生が宣言されることとなります。
その後、武力解決を望む新政府軍からの挑発に耐えかねた旧幕府軍が火蓋を切り、いよいよ戊辰戦争が開戦します。鳥羽・伏見の戦い、江戸城無血開城、東北戦争、会津戦争、五稜郭の戦いを経て戊辰戦争は新政府軍の勝利で終戦。

 

●戊辰戦争に対する会津藩の対応
会津藩は「京都守護職」という京都の治安維持を任されていたこともあり、幕府側との繋がりが強い藩でした。そのため、藩主である松平容保(まつだいらかたもり)は旧幕府軍として「鳥羽・伏 見の戦い」に参加。人数では有利なものの、最新式の武器を扱う新政府軍に劣勢を強いられ、敗北を喫しました。
本来白虎隊は16~17歳の隊でしたが、入りたいがために年齢をさば読みして入隊した隊士もいたそう。総勢約300人で主に城内の警護にあたり、緊急時には戦闘に参加するという役割を与えられ、結成に至りました。

 

●白虎隊出陣
朱雀隊・青龍隊の予備として結成された白虎隊。ここでは彼らがどのようにして最期を迎えたのかを、自刃をした隊士の中で唯一生き残った飯沼貞雄が著した『白虎隊顛末記(びゃっこたいて んまつき)』の内容をもとに解説していきます。
白虎隊が出陣したのは1868年8月20日のこと。隊士たちが自刃するわずか3日前のことでした。新政府軍の猛攻は凄まじく、長岡城(新潟県長岡市)、二本松城(福島県二本松市)、福島 城(福島県福島市)を次々に攻め落としていきました。
その時白虎隊士は一刻も早く現地に行きたかったそう。念願叶ってか、戦闘の舞台となる「戸ノ口原(とのくちはら)」に向かっていくことになります。

 

●霧雨の戦闘、そして退却
新政府軍の攻撃を受け、退却命令が出たため、霧雨の中来た道を逃げていきました。その後、新政府軍を振り切り、鶴ヶ城を目指すこととなります。その道中、多くの兵士と遭遇。敵か味方 かわからなかったので合言葉を求めると発砲されました。
なんとか逃げ、彼らが次に目指したのが南に位置する飯盛山。そして彼らは自らの死地へ導かれていくこととなります。

 

●隊士自刃の地飯盛山
白虎隊が自決をした理由は、城が燃えていると勘違いしてしまったからだと思っている人も多いと思います。しかし、実際のところは城下町が燃えており、城はまだ落ちていないことがはっきりと見えていたそう。
一口メモ:2023年8月
  燃え盛る会津を見る白虎隊士の像                 

 

隊士の野村駒四郎は城に入って敵と戦うことを提案しました。しかし篠田儀三郎が「城に入るのは不可能ではないが、誤って敵に捕まり、捕虜となったら君主や先祖に申し訳ない。潔くここで自刃をし、武士の本分を明らかにするべきだ。」と提案。
この意見に全員が賛成し、8月23日午前11時ごろ、少年たちは自らに刃を突き刺し、計17名が自刃することとなりました。

 

●自刃のその後
その後、鶴ヶ城では1ヶ月もの間籠城戦が繰り広げられました。籠城戦は苛烈を極め、多くの死傷者を出しました。新政府軍に包囲された鶴ヶ城は1カ月間砲撃を受け続け、美しい城は痛ま しい姿へと変わっていきます。
そして9月22日に会津藩が降伏宣言をし、会津での戊辰戦争は終結。犠牲者は数千人にのぼると言われるほど激しく、多くのものを失った戦争でした。
飯盛山にある白虎隊士の墓では絶えることなく煙が上がっており、多くの人が手を合わせに訪れています。

 

●白虎隊記念館
白虎隊をはじめとする会津藩の歴史を後世に伝えたいとの思いで会津若松出身の弁護士であった早川喜代次(はやかわきよじ)によって創立されました。館内には貴重な資料が保存されております。 

 

 

        出典:THE GATE|日本の旅行観光マガジン・観光旅行情報掲載
            https://thegate12.com/jp/article/439

 

 

 

 

 

 

TOPへ